別れに苦しむ人へ②ーあなたに会えてよかった。と言えますか?

「あなたに会えてよかった」と言えるのは、もう会えなくなってからではないだろうか。
もしくは、会えなくなることが決まったとき。

だいたいこのタイトルって別れを歌った曲ばかりだよね?
と思って検索してみると、じつは1曲しか「あなたに会えてよかった」は出てこなかった。
とても意外。

言わずと知れた小泉今日子の歌った名曲(30年前!)。
ご本人の作詞だとは知らなかった。
実はラブソングではなく、お父様のことを思って書かれた詞だという。
(参照)

自分がこれまで経験してきた別れや過去に出会ってきた相手を思ったとき、
○ぱっと何かしらの思いを口にできる相手
○何か言葉にできずモヤモヤが胸に広がる相手
がいるように思う。
「あなたに会えてよかった」と言えるのは前者だろう。

前者と後者では何が違うのか。
別れてからの時間?
たしかに時間は有効な薬だ。辛い記憶も少しずつ薄れさせてくれる。
でも、モヤモヤやネガティブな感情を煮詰めてしまうのもまた時間でもある。

時間が経ってもモヤモヤの残る相手というのは、
精神的な距離を置けていない相手なのではないかと思う。
精神的な距離は、実際の相手との距離とはちがう。
もう会えなくなった相手だとしても、心が離れられずにいることはある。
そこにある感情は何なのか。

未練?そうとも限らない。
不全感、というのがいちばん近い気がする。
あれもしたかった、こうしてほしかった、の後悔。
あのときああ言っていたら、こうしていれば、のたられば。
その関係のなかで、想いを燃やしきれなかった自分が残っているのだ。

時間は進んでも残るこの不全感をどうするか。
相手に直接伝えられる状況にあるのなら、そうするのもありだろう。
ただ、その想いが受け止められるかはわからない。
投げられた気持ちをどうするかは、受ける側に自由があるのだから。
かえって傷を深めることになる可能性だってある。

かといって、ひたすら自分の内に閉じ込めておくのも無理がある。
消化しきれないモヤモヤをしまい込んでおくと、突然思ってもみなかったところで爆発することもあるから。

ーとここまで書いて
私が思っていたことがとてもわかりやすく書かれている記事を見つけた。

大切な存在を失うことによる悲嘆・苦悩―「グリーフ」はどう癒えるのか

記事の後半に「語ること」の重要性について触れられている箇所がある。

グリーフを自分の経験としてうまく組み込むために必要なものは、経験や思いを言語化し整理する「語り=ナラティブ」のプロセスです。たとえば誰かに自分の経験について話すとき、頭の中で整理され準備された内容が語られるわけではありません。相手との対話の瞬間に、自分がどんな経験をしたのか、そのとき何を感じたのかを、その都度頭の中で再編集して表現し伝えているのです。その過程で経験や思いは言語化され、整理される――これこそが「語り」のプロセスなのです。語りをとおして、その人の心は徐々に変化します。

ここで語られている「グリーフ(喪失体験に伴う悲しみ・恋しさ)」は「さよならの悲しみ」と言い換えてもいいと思う。

傷ついたり痛みを負った経験、もしくは感情について誰かに話そうとするとき
人はその経験について再度自分の中でふり返り→再構成する作業をしている。
言葉にしようとするとき、心の中にあるものをいま一度眺めてそれを整理することになるのだ。

もちろん、
○悲しみ(感情)が大きすぎて、今は誰かに話す気になれない
○簡単に言葉にできるような感情ではない
ということも大いにあるだろう。
そんな時は無理に言葉にする必要もない。
時を待つしかないこともたくさんある。

なら、時がたてば自然と傷は癒えるのか?
ある程度の時間が過ぎたとき、
その時点ではさほど重要な問題ではなくなっているかもしれないし
その状態でもどうにかやり過ごせるようになっている可能性もある。
ただ、経験上一人で抱えている感情はどこかの時点で「止まる」ことが多い。

そこで、もう一度考えてみてほしい。
自分の内にまだあるこの感情を、自分はどうしたいのかを。

金輪際心から消し去りたい?
それとも
つらかったけど、その中に入り混じった幸せな記憶は大事にしたい?

「グリーフケアのゴールは、悲嘆や苦悩をポケットに大切にしまい、必要なときに取り出せるようになること。自分のポケットにグリーフが入っていることを意識しながら、自分自身のペースでグリーフを味わいながら日々を生きていくこと」――何かを喪失することは悲嘆や苦悩につながりますが、十分に悲しみ、嘆き、その経験を語ることで、その感情とうまく付き合えるようになることが理想的だと思います。

「悲嘆や苦悩をポケットに大切にしまい、必要なときに取り出せるようになること」

これは自分の生きてきた道のりを愛おしむことでもあると思う。
これ以上ないような悲しみや苦しみのなかに、
砂金のように輝く思い出が入り混じっている。
だからこそ人は自分にとっての痛みを伴う感情や体験を手放すことが難しい。

手放せずにいる悲しみや苦しみ。
その感情から離れられずにいるのなら。
見て見ぬふりをしたり、無いふりをするのではなく。
できたらその感情を認め、その海に一度身を任せてほしい。

荒れ狂う波にのまれ、しょっぱい水にむせ込み。
なぜこんな目に遭うのかと天を呪いたい気持ちにもなるだろう。
でも。感情は経験に対する反応であり、生理的なものでもある。
生理的な反応ということは、<暑いと汗をかく>のと同じで必要なこと。
だからその時にきちんと出てこないと、どこかに影響が出るということになる。

悲しみや怒り、ネガティブといわれる感情ほど
本当は<その時>にしっかりと味わい、その中に身をおく必要があるのだ。

ひとりで思い、悲しみぬくのもいい。
自分の中からしか出てこない答えはあるから。
でも、それがどうにも苦しくなったら。
その感情を少しずつ誰かに語り、整理することで
「大きな痛みであり、大切な記憶」であると書き換えていってほしい。

感情を語り整理していくことで、
相手や苦しみとのあいだに精神的な距離がとれるようになる。
自分とは別の存在であると認められるようになるのだ。

これまで言えなかった相手に
「あなたに会えてよかった」と言えるまでの道のりは簡単なものではないかもしれない。

ただ、すべての経験は必要なものだと考えるなら。
すべての出会いもまた「会えてよかった」にほかならないものなのかもしれないと思う。

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