「普通の幸せ」はどこにある?

最近でも、ときどき聞くことがある。
普通に結婚したい、とか。
普通に幸せになりたいだけなのに、とか。
あるいは普通の家族がほしかった、とかもあるかな。

この場合の「普通」って2通りあるように思う。

1、「平均的な」という意味。年齢だったり収入だったり。
ひと昔前なら結婚適齢期なんて言い方もあった。

2、「自分にとって当たり前に感じる」という基準(環境)

1、の「普通」はわかりやすい。大体数字で表せるものだから。
2、の「普通」。これはわかりにくい、というより一人ひとりまったく異なるものだ。

たとえば、<母親>はあなたから見てどんな存在だったか。
仕事をしていたか、専業主婦だったか。
仕事をしていたなら、勤め人だったのか、あるいは自営だったか。
いつも化粧をしていたか、それともほとんど素顔だったか。
料理は得意だったか、それともあまり好きではなかったか。
泣いて帰ったとき、慰めてくれたか、あるいは叱り飛ばされたか。
実の母親の顔を知らない、という人も中にはいるかもしれない。

数限りない質問の答えをひとつひとつかけ合わせていった先に、
それぞれの母親の姿がある。それが<あなたにとって>「普通の」母親像だ。

自分が生まれ育った環境、そこにいた家族を、大概の子どもは<それが当たり前>のものだと信じて育つ。
好き嫌いや、居心地の良い悪いではなく、それが普通のこと。自分にとってのスタンダードなのだ。
自分にとってのみそ汁の味はこれ、というのと同じことだ。

自分のごく近くにいる人であっても、考える「普通」の姿は違っていると考えた方がいい。
たとえきょうだいであっても、親の印象を尋ねると異なっていることはよくあるのだから。

 

<普通に>幸せになりたいあなたへ

あなたの欲しい「普通」は1(平均的な)or2(自分にとって当たり前の)のどちらだろう。

1、の「普通」、これは<平均年収>や、国の示すモデル家庭のようなもので、
完全に同じものは存在しないと考えた方がよいように思う。
2、の「普通」、こちらもまた、完全無欠なものを見つけるのは不可能だろう。
あなただけが見て、感じてきたことの集合体が今のあなたの「普通」になっているのだから。
まったく同じ「普通」を持つ人は、世の中にひとりもいないだろう。

「あなたみたいに普通が一番いいのよ」
「そんな風に言うけど、普通の幸せなんてどこにもないのよ」

もう30年以上昔のドラマにこんなセリフがあった。
普通の幸せ、は特に自分が弱っているとき、とても輝いてみえる。
機能不全な環境で育っていたりすると、なおさらそう感じるかもしれない。

でも、残念ながら「普通の幸せ」や「普通の家族」は実在しない。
それぞれが生きてきた中で経験してきたことをかけ合わせ、像を結んだオリジナルのイメージ。
それもひとりひとり別々のスクリーンにしか映し出せないものだ。
ほかの人は同じ角度から見ることもできない、だから完璧に理解するのも難しい。

誰しもが自分にとっての普通(もしくはそれ以上)を求めて生きようとする。
自分にとっての普通は、誰かにとっては普通じゃないことで、誰かと一緒に生きようとするとき、
普通どうしは衝突していたく傷ついたりもする。でも、そこからが勝負だ。

普通どうしが衝突したときどうするか。

1、自分にとってのスタンダードはゆずれない、と環境を変える
2、しぶしぶながらも互いに少しずつ譲歩する

どちらを選んだとしても、あなたは自分の「普通」から離れることになる。

環境を変えれば見える角度も変わる。すると自分にとっての「普通」が変わっていく。
譲歩をすれば立ち位置が変わるし、なんならお互いの角度に気づくことはできるかもしれない。

どちらかを選ぶと、そこに<普通にはない>新たなかたちの幸せが生まれてきたりする。
見たことのない、普通より不格好かもしれないけど、どこにもない、そこだけに存在する
<私だけの>幸せな時間や家族だ。

「普通」を求めすぎない。
それは一人ひとりの内側にしか存在しない、ある意味幻想のようなものだから。
そして、私たちが自分の「普通」を変えることを恐れなくなったとき、
<普通にはない>幸せを自分で生み出せるようになるのかもしれないと思う。

 

 

 

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