家じゅうの窓を開け放して風を通した。
きょうは夫の3か月ぶりの出勤日だ。
コロナ禍で原則在宅勤務となり、そもそも仕事用ではない机と椅子と狭い部屋。
特に静かになるわけでもない、日中の環境。
自然と人のほうだけでも静かにしようと、こちらもどこか動作小さめに生活するようになる。
いやー。昼間から窓を開け放てる幸せ(夫は換気時以外は閉めておきたいタイプだ)。
掃除機も自由にかけられる。録画していたライブ映像も好きに流せる。
日中は別部屋で過ごしているとはいえ、相手の気配を完全にシャットダウンすることはお互いに難しい。
どんなに仲のいいパートナー、家族との間でも、それぞれがひとりになる時間は必要だ。
理由は、相手は自分専用の存在ではないから。
仕事相手に見せる顔、出先のお店の人に見せる顔、趣味の仲間に見せる顔に、
ほかの家族に見せる顔。
それぞれ違った顔の集合体が、わたしやあなた、それぞれのパートナーだ。
在宅勤務中のパートナーの仕事ぶりを目にする機会があって、
ちょっと相手を見直した、という話をときどき耳にする。
何年も一緒に過ごしてきたりすると、相手には自分の知らない顔がある、
ということを私たちはどうしても忘れがちだ。
自分の知らない表情を持つパートナーを、あなたはどう感じるだろう。
そのすべての顔を知りえないことを淋しいと感じるだろうか。
相手のもつ顔は、すべて知っていたい、見ておきたいと思うだろうか。
その昔、結婚したばかりのとき、私自身がそんな感じだった。
ときどき「一人になりたい、自分の時間がほしい」という夫に対して、
じゃあ何のために結婚したの?と悲しい顔をしていた。
単純に淋しがりだとか、独占欲が強いといったところもあったかもしれないけれど、
大きかったのは社会経験の差だな、と今になってみるとわかる。
相手に自分といるとき以外の顔がある、ということが理解できなかったのだ。
大人になり、さまざまな役割を経験していくことで理解できるようになることを、
当時の私はまだわかっていなかったのだと思う。
「一人になりたい、自分の時間がほしい」ということは、
私の前での顔とも違う表情の時間が自分にはある、ということだ。
夫は私にとっては夫でしかないけれど、彼は夫以外の顔も、役割も持っている。
もしかしたら、それ以上に見えていない顔も持っているかもしれない。
こちらからは同じ角度でしか見ていない以上、知りえない顔があってもおかしくはない。
パートナーの知らない一面、というとなんだか不安になってしまいそうだけれど、
それはあって当然のものだと思う。私たちの目も心も、相手を360度ぐるりと捉えられる
ようにはできていないのだから。
互いの知らない顔、というのは時に不和をもたらすかもしれないけれど、確実に心を動かし、
パートナーシップや家族関係に新しい風を入れてくれるものでもある。
たとえば、保育園や幼稚園の行事で、家だとただただ頼りなく、自分がいないとどうにもならないわが子が
堂々と大きな声で歌ったりせりふを言ったりしている。そんな姿に成長を実感し、
自分もまたしっかりしていかないと、と胸を熱くした経験のある人も多いのではないだろうか。
知らない顔を認めるときというのは、関係性を動かし、互いの成長をうながしていくダイナミズムといえるものかもしれない。
一人になりたい、自分の時間がほしい、という言葉はいつからか夫の口からは聞かれなくなった。
私の嫌がる様子が嫌で言わなくなったのか、あるいは家で私といても、「ひとり」の顔で
いることができるようになったのか。きょうも夫は平和な顔で同じ部屋の中、タブレットを
いじっている。
結婚してから20年近く経ったいま、一人になりたい、自分の時間がほしい、とたまに口にしたくなる。
それはもちろん、二人でいるのが嫌なわけではなく。時を重ねて、様々な経験を経て、
自分にも夫にもさまざまな顔があるのだと実感できるようになったからだ。
なんというか、それぞれの顔に日の目を見てほしい、と思うようになったのだ。
あの頃の夫には申し訳なく思う反面、それぞれのやり方で「ひとり」を楽しめるようになったのは
20年後のふたりにとって悪いことではなかったよ、と思っている。
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